旧・三国競艇場(福井県)
1953(昭28)年〜1968(昭43)年

港街みくには、福井県の西北端に位置し南より北に九頭竜川が流れ河口附近で竹田川と合流して日本海に注いでいる
当時の三国町は、年々上流より流れ来る土砂のため間断なく河口の浚渫を要したため
その莫大なる経費の支出を余儀なくされ、町財政は窮乏の極にあえいでいた

1951(昭26)年6月
町財政を建直すために港を利用してモーターボート競走を実施しようという案に全員意見の一致を見た

1951(昭26)年10月19日:社団法人福井県モーターボート競走会設立の認可がおりる

自治庁の通達による競走施行者要件として「人口三万人以上を要する」とあるので
近隣各町村へ加入万働きかけ
武生市に共催の名だけ取りあえず協力してもらうことに承認を得る

1952(昭27)年7月:競走場の予定地である九頭竜川河川敷堤外地の使用許可がおりる
当時の三国町の財政事情は、モーターボート競走場を建設するための莫大な経費を調達することは困難
全町民に出資を呼びかけたが思うにまかせず
やむなく
京福電鉄株式会社に任せることとし施設会社:三国競艇施設株式会社の誕生をみるに至る

同年11月:自治庁告示により、
武生市三国町ともにモーターボート競走を行なうことのできる施行者として指定をうける

1953(昭28)年2月:九頭竜川畔の競走場建設予定地の整地作業を開始する

「九頭竜の三角波」といわれる選手も恐れる全国屈指の難水面の競走場が仕上がった
1953(昭28)年4月14日:
武生三国モーターボート競走施行組合にて旧・三国競走場初開催(所在地:三国町汐見)
折から快晴
ファンも初めてとあってか華やかな開会式とはうらはら、あまり成績はよくなかった
第一レース売上げ 398枚
当日総売上げ 10,853枚
六日間累計 86,880枚

日本海側唯一のモーターボート競走場であり宣伝の不足やファンの不馴れ
地理的な悪条件も加わって、施行組合、施設会社、競走会の三者一体となっての努力にもかかわらず
予定したほど売上げは伸びず、関係者ともども正に開拓者としての苦難の途を歩んだ

1954(昭29)年9月:日本を縦断襲撃した洞爺丸台風のため、三国競艇場は全施設が水没し
潰滅的打撃をうける
以後河川敷地の宿品とはいえ、伊勢湾台風、第二室戸台風等が襲来するたびに、
甚大な被害を受けた

1960(昭35)年頃になり一日平均売上げ四百五十万円余と伸び
開催時主催者の予定していた額に到達、ようやく好転のきざしを見せて来た
その後、ゆるやかではあるが売上げは順調に伸びはじめる

1963(昭38)年5月:
三国競艇施設株式会社と協議の結果、委託を解除することとなり
施行組合の実質施行に切り替えると共にオーナー権の譲渡を受ける

1965(昭40)年:度重なる災害と河川利用のためには避けられぬ塵芥の漂流、冬季の荒天によるレース中止等
従来より種々困難はあった
たまたま近く九頭竜川が一級河川に昇格し、建設省の管理になるとの風評もあり
この際競走場を移転してはとの案が特出された

1966(昭41)年:九頭竜川が一級河川に昇格する
その管理が福井県より建設省に移管されたので、堤外地にある施設一切を
早急撤去するようにとの通達があり
移転地の候補地選定に着手
1 鯖江市郊外の染色団地不用地
2 三里浜砂丘地帯
3 池上地籍俗称「フケ」附近
4 滝谷台地後方附近
レースは現在地にて、そのまま続行しながらも慎重に移転地の検討が行われ
新競艇場の移転先を、
池上地籍「フケ」附近にしぼり交渉することとなる

1967(昭42)年10月:競艇場移転許可と同時に移転地の工事に着工

現在の主催者は
武生三国モーターボート競走施行組合(越前市・坂井市)とあわら市で主催している



福井県坂井郡三国町汐見